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  • 映画は、ジガ・ヴェルトフが「映画眼(キノグラース)」と言ったように、カメラという機械の眼によって、人間の眼の能力を超えた、さまざまな視覚体験をもたらした。それによって、わたしたちの眼は対象を拡大し、対象の中に入り込み、空を飛び、雲の上から街を眺めたり、ものすごい速度で空間を駆け抜けたり、といった非日常的な視覚体験が可能となった。また、人間の眼よりも高解像度の視覚は、知覚の情報量を飛躍的に増加させ、機械の眼によってしか得られない、人間の眼の模倣ではない視覚によって、世界を新たにとらえ直すことができるようになった。一方、聴覚のみによる、映画的体験の創造は、映画作家であるヴァルター・ルットマンをはじめ、リュック・フェラーリによる「耳のための映画」や「逸話的音楽」、ブライアン・イーノ「音のみの映画」といった、映像的音楽の試みとして、これまでも幾人かの音楽家によって実践されてきた。あるいは、オスカー・フィッシンガーによる、見る音楽としてのヴィジュアル・ミュージックなど、視覚体験と聴覚体験を越境しようとうする試みが行なわれてきた。『See by Your Ears』は、こうした試みにおける、もうひとつのディメンションを提示する。映画における音が、画面という切り取られた空間外の時空間を示唆するように、視覚を遮断された状態で、音は自在に時空間を生成する。わたしたちは、evalaがテクノロジーによって作り出した真暗な聴覚空間に投げ出され、音によって脳内に生起するイメージによってのみ、世界をいま一度とらえ直す。それは既存の視覚的なイマジネーションにとらわれない、「見ることができない」イメージ体験となることだろう。わたしたちの耳が、これほどまでに豊かなイマジネーションをもたらす感覚器官であったのか、という発見とともに、耳という器官がアップデートされ、「見えること」を超えた、イマジネーションの驚くべき世界がひらかれる。

    畠中実(ICC主任学芸員)
  • 去る日曜日、私は日本人サウンドアーティスト、evalaのプライベート・スタジオに招かれた。evalaはここ東京渋谷でもっとも面白いビルの一つに美しいプライベート・スタジオを構えている。私たちは初対面だったが、会った瞬間に、私を迎える彼の親切さ、礼儀正しさ、そして繊細さに感銘を受けた。はじめに体験したのは、無響室に設えた近年の作品の一つ、「Anechoic Sphere- Hearing Things」。3つのメトロノームが放つカチカチという音が、3つの小さなマイクによって拾われ、増幅・修正され、電子的に操作され、また重ね合わせられる。そう聞くと、ハンガリーの作曲家、リゲティ・ジェルジュの「100台のメトロノームのためのポエム・サンフォニック」(Poème Symphonique for 100 metronomes)にインスパイアされた、面白いスコアを作る作品を想像するかもしれないが、そうではなくこの上なく上質で素晴らしい芸術的価値をもち、ユニークな言語を展開する非常に独創的な作品であった。暗闇の中で無響室に閉じ込められているということも手伝ってか、村上春樹の小説でしばしば言及される、暗くて深い秘密の「井戸」に、たちどころに私を導く非常に示唆的な音楽。その「井戸」は、パラレルワールドへと続いているのだ。しかし、evalaの音楽はさらに、私たちの深部にある、殆どの人がアクセス不能な「意識」と「無意識」が最終的に出会う空間へと私を誘う。おそらくそこへは、各々がシャーマニックで探索的な旅を経て、トランス状態に到達することでのみ接続できる。驚くことではないが、トランスという言葉はラテン語の「transīre」に由来し、「乗り越える」、「通過する」、つまりは、どこか別の領域に行くことを意味する。この作品の体験が、evalaの最新作であるインビジブル・シネマ、「Sea, See, Sheーまだ見ぬ君へ」の一部プレビューの準備となった。この作品は、1月24日から26日まで東京のスパイラルホールで公開される。鑑賞者は、暗闇が映像に取って代わったインビジブル・シネマ(見えないシネマ)を体験することになる。思考を解放し、我々の想像力を通してイメージを再現するよう促すために仕掛けられる、真っ暗な空間…非常に魅力的なアイディアだ。これは、サウンドだけで構成される映画の上映だが、膨大な数のスピーカーと複雑な電子システムを使用した3次元立体音響で構成される。楽曲が見事に構成されているだけではなく、evalaは世界を旅する中でフィールドレコーディングも行なっている。ともかく、これがインビジブル・シネマについて述べられる全てである!我々の耳は音楽を聴くが、それらの音に触発されて魅惑的なイメージを脳内で作り出すことは我々自身に委ねられている。そして、自分では思いもよらなかったものを目にするのだ!evalaの作品は、示唆に富み、刺激的で、非常に引き込まれるものだ。一言でいえば、「必見」!

    アンドレア・カヴァッラーリ(作曲家・美術家/ウィリアム・ケントリッジ氏 プロデューサー)
  • 如何に世界が脆いか。evalaさんは、Maxwellの悪魔である。自分は自分をコントロールしていると思っている。いや、そう思わなければ、街を歩くこともできないし、いわんや、科学的な創造の仕事も手につかない。世界は、物理法則が支配している。その法則の世界に入るためには、まず自分の偏見に基づく感覚を遮断し、世界を客観視する必要がある。そのためには、体の周りを分厚い外殻で囲って、外からやってくる刺激に、その外殻が即座に対応して、守ってくれるようにする。外殻はコンクリートのように硬く、「自分」というものはその中から全てをコントロールして、外で起こる反応を、ただ、眺めて楽しんでいる。そして時折、殻越しに、外を突っつく。evalaさんは外殻のなかに、土足で踏み込んでくる。背後からチャックを開けるし、ストローで息を吹き込むし、水でびしょ濡れにしてくれる。その時初めて、自分で作り上げてきた外殻がまぼろしであり、感覚はMaxwellの悪魔のように簡単に物理法則を超えてしまうということがわかるのだ。世界が非常に脆いことを知るのだ。うん、evalaさんは僕の殻の中に入ってきたのではないかもしれない。僕を殻から出してくれたのかもしれない。こんなに簡単に出られるのだよ、外は。一緒に行こうよ、外に。そう言ってくれたのだろうか。そして、外は、僕の知る外ではない。僕が把握する外ではない。そこに、殻なしで出て行くのは、物理学者として世界を物理学で見ようとしてきた人生を捨てて、出て行くのである。いや、人生そのものが殻である。外に行けない。いくらevalaさんが誘っても、ダメだ。ただ、外があるということを知ることは、つまり、evalaさんに外の世界を少しだけ教えてもらうことは、科学の先の可能性をちらりと見るようなものだ。科学の作業は、自分なりに殻を書き換えていくことであるから、科学者として少しずつ進んでいく望みを増強してくれるものがevalaさんであることは疑いない。たしかに、evalaさんはMaxwellの悪魔の一人であろう。外の世界は無限の高次元である。人間はその中に、4次元時空という殻を構築した。そして、殻の表面に、場の量子論を構築した。はみ出すことは、はみ出せる人だけが、許されている。Maxwellの悪魔のように。

    橋本幸士 (理論物理学者)
  • 音のVRというよりもAR的なところもあり、さらに、強く思い出したのはAutechreの”VI Scose Poise”。あの曲をもっと複雑に、しかもリアルタイムで構築し直したようなつくりで、クセナキスの音像や、数学的な構造、空間が素晴らしく、とにかく堪能しました。Congrats!

    真鍋大度(メディア アーティスト)
  • 音が体の中に入ってくるのではないかという経験は初めてでした。脳がしびれた。

    MIKIKO(振付家)
  • これは非常に視覚的なサウンドアートで、夏休みの記憶と大学の教室を白昼夢的に行き来する感じがすばらしい。メトロノームが世界Aでつくられる仮想世界B、C、D、Eとが絡み合って意識を混乱させるのが楽しすぎる。実在性について音で作品をつくってみたくなる。

    池上高志(人工生命研究者)
  • とてつもなく濃密で圧縮された時間の体験でした。最初、暗闇の中で何かが見えると思って慌てましたが、それは自分のまぶたでした。その後繰り広げられる世界観でいろんなビジュアルが浮かんでは消え、音がここまで視覚、触覚に影響できるかとシンプルな気付きでした。本当に素晴らしかった。

    関根光才(映像ディレクター)
  • アインシュタインの視界が見える気がする。《hearing things #Metronome》は、時間と空間が織りなす「時空」の限界を突破していた。それは、高次元なのだろうか。 人間、見えないものを見せられると、目を見開くものだ。ただ、そう言われても、本当に目を何分間も見開くような体験は、人生にほとんどないものだろう。僕は、眼前の暗闇に現れた幾重もの時空に、目を凝らすしかなかった。それは、アインシュタインが見た時空かもしれなかった。暗室の正面に置かれたメトロノームは、無限遠の観測者の固有時を刻んでいる。そこに、他の観測者の時刻が刻まれ始める。同じ時空にいるはずの、他の観測者から発せられたメトロノームの音打が、自分に到達する。音の頻度、高さ、そういったスペクトルから想像すれば、自身が相対論的な速度そして恐ろしい加速度で運動していることが判明する。暗室の宇宙空間でどう目を凝らしても、そんな加速度で運動すれば、自身がどこにいるのか、どこにいるべきなのか、が判断できるわけはない。しかし、目を凝らすほか、なかった。物理学で学ぶ特殊相対性理論では、観測者が時空のローレンツフレームを決め、時空の図が描かれる。特殊相対性理論を創始したアインシュタインは、自在に時空フレームを行き来し、時間に関するパラドックスを解きほぐしていったに違いない。幾つかのローレンツフレームを行き来するには、ローレンツ変換の鍛錬が必要である。等速運動ならまだしも、加速度運動の場合は、ブラックホールのような時空の地平面が現れ、観測者の間の関係はかなり非自明になる。時空の歪みまで解明したアインシュタインは、思考実験により、たくさんの観測者のフレームを自在に行き来していたことだろう。アインシュタインの視点は、フレームという概念を超えた、我々が想像すらできない視点だったに違いない。アインシュタインは何を「見て」いたのだろうか? 暗闇のメトロノームは、そのうち観測者の数を増やし、僕を混乱に陥れた。そこには観測者の墓場があった。死に物狂いの音打が重なり、ブラックホールの地平面に落ちていく最後の嗚咽が、合唱となった。無限の観測者が一度に情報を発信した。そこにはもう、時空フレームの概念は無かった。いや、むしろ、それを超えた概念が在った。その概念は、僕の中で消化されずに、今も眼の裏側でうずくまっている。時間と空間の概念を変革したアインシュタインは、相対性理論として現在知られる時空以外の、もっと他の種類の時空をたくさん「見て」きたに違いない。だから、変革ができたのだ。時空のフレームを突破するとはどういうことか。既存の科学の枠組みを高次元へ超えるとはどういうことか。《hearing things #Metronome》は、その一例へ、僕を体ごと連れて行ってくれた。 evalaさん、ありがとう。

    橋本幸士(理論物理学者)
  • 「崇高さ」「神秘性」「時空を超越する」などの、日常生活ではなかなか味わうのことのできない体験や感覚を呼び起こされる、素晴らしい作品だと思いました。 21世紀初頭の現在の人間しか体験することのできない、まさしく文字通り「コンテンポラリー」なアート作品としか言いようのない、途方もない作品でした。

    孫泰蔵(投資家)